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京都の叔母と伯父

先月、京都の伯父さんが亡くなられた。

もちろん、葬儀にも駆けつけ、昨日は49日の法要に参列。

葬儀以来、色んな思いが駆け巡った。
それ程に、叔母の存在は、私にとって大きいのである。

叔母は、幼い私にとって母親の様な存在であった。
かと言って、私を微塵も甘やかすことなく、いつも口うるさかった。

口を開けば、「タカシ、勉強せい。」
「村で葬式があったら、全部に参列しなさい。これが商売する者の心得やから。」
「タカシ、アレもせい、これもせい。」

だから、母親と云うよりは、父親みたいに厳しかった。

年齢は、父親より6歳年下で、私が生まれた時、叔母は19歳。
父親が教師をしていた関係で、稼業のワタセは、その多くを叔母が切り盛りしていた。

父親の離婚は、私が3歳の頃である。

田んぼもあったから、商売の他に、百姓もこなすスーパー・レディ。
若い身空で、化粧一つせず、可愛い洋服を買うでもなく、ひたすら仕事を頑張っていた。

ワタセの稼業と農地は、叔母の青春を犠牲にして成り立っていたと思われ、
更に、私の存在自体も、叔母を悩まし、忙しくさせたのだろうと、想像している。

それでも、愚痴の一つも零さず、せっせと働く姿は今も鮮明で、
「人は、かく働くべし」と、私にとっては一種の強迫観念になった。

そんな忙しさの中で、あっと云う間に10年以上が過ぎ去り、
気が付けば、叔母は30代の半ばで、当時としては、婚期を逸した年齢になっていた。

私も、叔母のお蔭で、そろそろ中学生になる年頃になった。

私が小学校の6年生になった時、
たぶん、その日も、叔母の寝起きする部屋で寝ていたのであるが、

叔母から、話があると言われた。

何時になく神妙な言葉遣いで、一言一言、噛みしめる様に、小声ながらも、しっかりと話された。

「 あのな、 たーちゃん。

 私は、お嫁に行くことにします。

 だから、たーちゃんが中学生になったら、もう私は居ません。

 良くお聞き、

 もう、たーちゃんは大きくなったら、私が居なくても大丈夫。」

そして、最後に一言、付け添えた。

「私は、たーちゃんの母親やない。」 と・・・。

この言葉は、私には衝撃であった。
しかし私は、子どもながらも、それが叔母の本心であるとは、どうしても思えなかった。

心を鬼にして放った言葉は、私にではなく、自分自身に対して言い聞かせている言葉だと、私には思えた。

叔母の結婚式は、私の中学校の入学式「4月8日」であった。
もう50年も前だ。

小学校皆出席の私ではあったが、入学式をサボって結婚式に参列した。
中学校も、この日以外は、皆出席した。

「母親代わりの叔母の結婚式に、息子に私が出席しない訳にはいかない。」と、周囲の反対を押し切った。

この日の入学式では、新入生代表の挨拶が私の役割であったらしいが、そんなこともお構いなしで、欠席をした。
担任の先生にはご迷惑をお掛けしたが、許されたし、である。

さて、そんな私だから、叔母のご主人を見る「私の目」は、相当なものであった。
なにせ、母親を盗られた息子の眼差しなのだから。

お見合い結婚で、伯父とは、結婚式に初めて出会った。

「いつでも、京都へ遊びに来なさい。」と、優しく声を掛けられた。

以来、私は休みを見つけては、1人で京都へ行った。
『いつも、どんな人なんだろう?』と、気にしつつ、眺めていた。

やっぱり、穏やかで、優しいご主人だった。
いつも、変わらなく、誠実な人柄であった。

葬儀で、伯父のお骨を拾わせてもらった。
この時、まざまざと思い出した光景がある。

それは、私が中学校の1年生の時、
叔母の家で晩御飯をご馳走になっていたら、
「たーちゃん、そのお箸の持ち方は、駄目だよ。」と、丁寧に何度も何度も、持ち方を教わった。

『あっ!! このお箸の持ち方は、ヒロキさんに教えて貰ったのだ・・・・。』

葬儀の終盤、
棺桶の伯父に別れを告げる時。

気丈な叔母が、初めて泣いた。

「あんた、わたし 幸せでした。 ありがとう。」

さめざめ泣きながら、幾度も繰り返す叔母を見て、私も、充分に幸せな気分になり、

「伯父さん、ありがとうございました。」 と 心から合掌した。


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