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自己愛について

自己愛について考えることがある。

表向きは不真面目だが、内面は至って気まじめであった学生の頃、私は自己愛の共有と言う言葉に救われもした。
当時は良く人生について考えた。何故生きるんだろう?そんな疑問から抜け出せずに、厳しい論理を自分にぶつけもした。私は全共闘世代の若者だった。

明証性の原理は兎に角残酷な奴で、それが他者なり制度に向かっている内は良いが、ひとたび論理が自分に向かえば、それまでの自信は見事に粉々になってしまう。そんな中で、辛うじてこの世に踏み留まれたのは自己愛のお陰でもあった。
などと書き出せば、まるで私は哲学者志望の青年のようだが、実は楽天主義者であったりもする。
当時、色んなイズムが幅を利かした時代でもあった。イズムに嵌まれば、そこから抜け出すのは至難の技でもある。理論武装だけでは教条主義に敵わない私達若者は、感性の開放と実践と言う若者ならではの概念で立ち向かいもした。

さて自己愛だが、あまりにもシンプルな概念だけに、未だに理解に苦労をする。概念と言ったものの、それが概念なのか本能なのかも定かでない。
自己愛の及ぶ範囲は、先ずは自分自身だろう。次に子供が来て、親が来て、兄弟だろうか。所謂、血縁がこれに当り、更に薄まれば民族となるのだろうか。排他的なるものが気にかかりはする。

反して、恋愛中の二人とか、夫婦とか、友人間における関係は血の関係ではない。そこに共通の有益性(利益)が介在することによって、自己愛が共有されるのだろうか。共通の有益性とは、なにも金銭だけでなく精神的なものも含まれる。

しかし、これだけではなかろう。私は自己愛に有益性を超えたイメージを感じている。私達は、同時代に生きて、感じたり考えたりすることを共有している。自分と他者が全く別の人格でありながら、時代に共鳴し感動し、歓び悲しみ、感じ取る作業をする同志に近い関係が成立する。
花々が咲き乱れるが如く、自己愛とは人々の生きることへの輝きなのだろう。私は自己愛をエロスと位置づけたい。

自己愛をエロスと置き換え、すこし満足げな今日である。
もしも私の中に生きている証の炎があるとすれば、エロスはその輝きだろう。
遍く人々のエロスが輝く時の為にこそ、能力を使いたい。

平成15年、人々は松明の如くエロスをかざしている。
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